OGATSU SUZURI COOPERATIVE ASSOCIATION
雄勝硯生産販売協同組合

雄勝町と硯の歴史を紐解くと、仙台藩が編纂した「封内風土記」には応永(1394~1427)の昔より雄勝では雅物としての硯が産出され、銘硯として名が広まっていたことが記されています。


>> 雄勝硯詳細はこちら

以来、600余年もの長きに渡り脈々と受け継がれてきた伝統の雄勝硯文化は町の中心産業の1つとなり、雄勝町は「すずりの里」として広く知られるものとなります。学童用硯の供給も担うなど最盛期には200~300人が硯産業に従事し、日本随一の生産量を誇るとともに雄勝町はまさに日本の硯産業の中心を担ってきました。

近年、かつては年間250万枚流通していた日本の硯市場が時代の流れとともに縮小する中で、雄勝町の硯生産量および硯関連事業者数も減少してはいきますが、依然、国内産硯の90%を生産(東日本大震災前)していました。

そんな雄勝町硯産業の文化・歴史の中で誕生した 雄勝硯生産販売協同組合(以下、雄勝硯組合)は、1984年(昭和59年)に現地の硯事業者により組織されて以来、各事業者とともに雄勝町硯産業の発展に努めてきました。

never give up

雄勝硯の復興

「600年の歴史を、自分たちが途切れさせるわけにはいかない。」

― 雄勝硯組合 澤村文雄元理事長 ―

2013年3月11日の東日本大震災の大津波によって、一部の大型機械の断片を除き、倉庫設備や工具に至るまで、すべての雄勝町硯事業者の、全ての産業インフラが流失しました。しかし、当時まだ電気や水道の復旧はもちろん瓦礫の撤去すら手をつけられない中、日本の伝統を担う使命感と復興への情熱だけを原動力として、雄勝硯組合は復興に向けいち早く立ち上がりました。そしてその声に呼応して、日本全国および海外から寄付や義捐金、各種ボランティア活動など、沢山の支援が寄せられました。

それからおよそ2年半、組合員数および硯事業者数は震災前に比べ減少したものの、雄勝町に残った組合メンバーが中心となり域外に移転した組合員とも連携して、数々の困難に直面しながらも、硯組合は雄勝硯復興に向け力強く歩んできました。また、雄勝硯組合は自身の復興活動と同時に、石巻市による雄勝町の復興支援事業「復興応援隊」の労務管理を請け負うなど、雄勝町の復興にも寄与しています。

今日、まずは最低限の生産設備復旧という形で、あの日の情熱は復興への第一歩と昇華しました。しかし同時に、今後の急務である販売活動の推進や生産設備の補強など、真の復興を成し遂げるために乗り越えなければならない課題は依然多く残されています。

OGATSU CHO
雄勝町

SUPPORT_kumiai2

入り組んだ海岸線が醸し出す美しい景観と漁業や法印神楽などの豊かな文化に恵まれた宮城県石巻市雄勝町は、雄勝玄昌石を原料とした硯の生産量日本一として知られた、4,300人ほどが暮らす太平洋に面する小さな町でした。

【2011年3月11日 14時46分】
雄勝町では、2011年3月11日に起きた東日本大震災による津波で約250名が犠牲となり、町の8割の建物が壊滅的な被害を受けました。リアス式海岸のわずかな平地を漁港・商業地・住居地としていたことから、津波の高さは高いところでは10mを超え、町のほぼ全域が浸水域となりました。

【復興への歩み】
震災からおよそ2年半、ボランティアの方々による支援活動や行政による復興作業によって瓦礫撤去も概ね終わり、徐々に新しい建物も建ちはじめています。早い段階で行政により建てられた「店こ屋(たなこや)」と名付けられた仮設プレハブには、雄勝硯組合を含め地元商店が軒を連ね、雄勝町の人の流れの中心になっています。雄勝町産のウニやホタテを食べることもできます。

【雄勝町の現在】

2014年現在